2008年11月6日木曜日

「この湯は何に利《き》くんだろう」と豆腐屋の圭《けい》さんが湯槽《ゆぶね》のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。
「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、臍《へそ》ばかりざぶざぶ洗ったって、出臍《でべそ》は癒《なお》らないぜ」
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉《ゆ》を掬《く》んで、口へ入れて見る。やがて、
「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」と碌《ろく》さんはがぶがぶ飲む。
 圭さんは臍《へそ》を洗うのをやめて、湯槽の縁《ふち》へ肘《ひじ》をかけて漫然《まんぜん》と、硝子越《ガラスご》しに外を眺めている。碌さんは首だけ湯に漬《つ》かって、相手の臍から上を見上げた。
「どうも、いい体格《からだ》だ。全く野生《やせい》のままだね」
「豆腐屋出身だからなあ。体格が悪《わ》るいと華族や金持ちと喧嘩《けんか》は出来ない。こっちは一人|向《むこう》は大勢だから」
「さも喧嘩の相手があるような口振《くちぶり》だね。当《とう》の敵《てき》は誰だい」
「誰でも構わないさ」
「ハハハ呑気《のんき》なもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのには驚《おどろ》いたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙《ごめんこうむ》ろうかと思った」
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行《ある》いたつもりだ」
「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼の敵《かたき》だね」
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」
「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」
 碌さんは湯の中で首を捩《ね》じ向ける。
「かぼちゃさ」
「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這《は》ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」
「屋根へ上がっちゃ、かぼちゃになれないかな」
「だっておかしいじゃないか、今頃花が咲くのは」
「構うものかね、おかしいたって、屋根にかぼちゃの花が咲くさ」
「そりゃ唄《うた》かい」
「そうさな、前半は唄のつもりでもなかったんだが、後半に至って、つい唄になってしまったようだ」
「屋根にかぼちゃが生《な》るようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」
「また慷慨《こうがい》か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇《あそ》へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」
「噴火口は実際猛烈なものだろうな。何でも、沢庵石《たくあんいし》のような岩が真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから壮《さか》んに違ない。――あしたは早く起きなくっちゃ、いけないよ」
「うん、起きる事は起きるが山へかかってから、あんなに早く歩行《ある》いちゃ、御免だ」と碌さんはすぐ予防線を張った。
「ともかくも六時に起きて……」
「六時に起きる?」
「六時に起きて、七時半に湯から出て、八時に飯を食って、八時半に便所から出て、そうして宿を出て、十一時に阿蘇神社《あそじんじゃ》へ参詣《さんけい》して、十二時から登るのだ」
「へえ、誰が」
「僕と君がさ」
「何だか君|一人《ひと》りで登るようだぜ」
「なに構わない」
「ありがたい仕合せだ。まるで御供《おとも》のようだね」
「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩《うどん》にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯《ひるめし》の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸《すぎばし》を食うようで腹が突張《つっぱ》ってたまらない」
「では蕎麦《そば》か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類《めんるい》じゃ、とても凌《しの》げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走《ごちそう》が食いたい」
「阿蘇《あそ》の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平《ひら》に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好《い》いんだからね」
「だから柔弱《にゅうじゃく》でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩《や》せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。
「そんなに痩せもしなかったがただ虱《しらみ》が湧《わ》いたには困った。――君、虱が湧いた事があるかい」
「僕はないよ。身分が違わあ」
「まあ経験して見たまえ。そりゃ容易に猟《か》り尽せるもんじゃないぜ」
「煮え湯で洗濯《せんたく》したらよかろう」
「煮え湯? 煮え湯ならいいかも知れない。しかし洗濯するにしてもただでは出来ないからな」
「なあるほど、銭《ぜに》が一|文《もん》もないんだね」
「一文もないのさ」
「君どうした」
「仕方がないから、襯衣《シャツ》を敷居の上へ乗せて、手頃な丸い石を拾って来て、こつこつ叩《たた》いた。そうしたら虱《しらみ》が死なないうちに、襯衣が破れてしまった」
「おやおや」
「しかもそれを宿のかみさんが見つけて、僕に退去を命じた」
「さぞ困ったろうね」
「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多《めった》に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚《あぶらげ》、がんもどきと怒鳴《どな》って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐《とうふ》いと云う資格はないのかな。大《おおい》に僕の財産を見縊《みくび》ったね」
「時に君、背中《せなか》を流してくれないか」
「僕のも流すのかい」
「流してもいいさ。隣りの部屋の男も流しくらをやってたぜ、君」
「隣りの男の背中は似たり寄ったりだから公平だが、君の背中と、僕の背中とはだいぶ面積が違うから損だ」
「そんな面倒な事を云うなら一人で洗うばかりだ」と圭さんは、両足を湯壺《ゆつぼ》の中にうんと踏ん張って、ぎゅうと手拭《てぬぐい》をしごいたと思ったら、両端《りょうはじ》を握ったまま、ぴしゃりと、音を立てて斜《はす》に膏切《あぶらぎ》った背中へあてがった。やがて二の腕へ力瘤《ちからこぶ》が急に出来上がると、水を含んだ手拭は、岡のように肉づいた背中をぎちぎち磨《こす》り始める。
 手拭の運動につれて、圭さんの太い眉《まゆ》がくしゃりと寄って来る。鼻の穴が三角形に膨脹《ぼうちょう》して、小鼻が勃《ぼっ》として左右に展開する。口は腹を切る時のように堅く喰締《くいしば》ったまま、両耳の方まで割《さ》けてくる。
「まるで仁王《におう》のようだね。仁王の行水《ぎょうずい》だ。そんな猛烈な顔がよくできるね。こりゃ不思議だ。そう眼をぐりぐりさせなくっても、背中は洗えそうなものだがね」
 圭さんは何にも云わずに一生懸命にぐいぐい擦《こす》る。擦っては時々、手拭を温泉《ゆ》に漬《つ》けて、充分水を含ませる。含ませるたんびに、碌さんの顔へ、汗《あせ》と膏《あぶら》と垢《あか》と温泉《ゆ》の交《まじ》ったものが十五六滴ずつ飛んで来る。
「こいつは降参だ。ちょっと失敬して、流しの方へ出るよ」と碌さんは湯槽《ゆぶね》を飛び出した。飛び出しはしたものの、感心の極《きょく》、流しへ突っ立ったまま、茫然《ぼうぜん》として、仁王の行水を眺めている。
「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんが槽《ふね》のなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端《いったん》を放すや否や、ざぶんと温泉《ゆ》の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽《まんそう》の湯は一度に面喰《めんくら》って、槽の底から大恐惶《だいきょうこう》を持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへ溢《あふ》れだす。
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞《ふるま》ったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀《しない》と小手《こて》の事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気《のんき》なものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だか訳《わけ》が分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似《まね》をする。
「ハハハハそこでそら竹刀《しない》を落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家《こうがいか》かも知れない。そらよく草双紙《くさぞうし》にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本|毛剃九右衛門《けぞりくえもん》て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉《ゆ》に這入《はい》りに来る時、覗《のぞ》いて見たら、二人共|木枕《きまくら》をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へ載《の》せたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。
「何だろう、あの本は」
「伊賀《いが》の水月《すいげつ》さ」と碌さんは、躊躇《ちゅうちょ》なく答えた。
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首を捻《ひね》った。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入《はい》る。圭さんはまた槽《ふね》のなかへ突立《つった》った。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上《のぼせ》るから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうも何《なんに》も知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
「相撲取《すもうとり》だ」
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦《だいきょうえつ》である。
「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州|相良《さがら》って云うじゃないか」
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、毫《ごう》も僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路《やまみち》が苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうてい叶《かな》いっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」
「君は第一平生から惰弱《だじゃく》でいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩《うどん》に逢《あ》った時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概|箚青《ほりもの》があるじゃないか」
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんな愚《ぐ》な真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」
「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易《へきえき》するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々《いいだくだく》として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半《せっぱん》されるんだから、愚《ぐ》の極《きょく》だ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇《あそ》の噴火口を見る事ができるだろう」
「可愛想《かわいそう》に。一人《ひとり》だって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外|意気地《いくじ》がないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟《りくつ》がわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑《けんのん》なものだ」
「なあに年《ねん》が年中《ねんじゅう》思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉《コレラ》になるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」
「時にあの髯《ひげ》を抜いてた爺さんが手拭《てぬぐい》をさげてやって来たぜ」
「ちょうど好いから君一つ聞いて見たまえ」
「僕はもう湯気《ゆけ》に上がりそうだから、出るよ」
「まあ、いいさ、出ないでも。君がいやなら僕が聞いて見るから、もう少し這入《はい》っていたまえ」
「おや、あとから竹刀《しない》と小手《こて》がいっしょに来たぜ」
「どれ。なるほど、揃《そろ》って来た。あとから、まだ来るぜ。やあ婆さんが来た。婆さんも、この湯槽《ゆぶね》へ這入るのかな」
「僕はともかくも出るよ」
「婆さんが這入るなら、僕もともかくも出よう」
 風呂場を出ると、ひやりと吹く秋風が、袖口からすうと這入って、素肌《すはだ》を臍《へそ》のあたりまで吹き抜けた。出臍《でべそ》の圭さんは、はっくしょうと大きな苦沙弥《くしゃみ》を無遠慮にやる。上がり口に白芙蓉《はくふよう》が五六輪、夕暮の秋を淋しく咲いている。見上げる向《むこう》では阿蘇《あそ》の山がごううごううと遠くながら鳴っている。
「あすこへ登るんだね」と碌さんが云う。
「鳴ってるぜ。愉快だな」と圭さんが云う。

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