2008年11月6日木曜日

「姉さん、この人は肥《ふと》ってるだろう」
「だいぶん肥《こ》えていなはります」
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理《しょうじんりょうり》じゃ、あした、御山《おやま》へ登れそうもないな」
「また御馳走《ごちそう》を食いたがる」
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」
「なにこれほど御馳走があればたくさんだ。――湯葉《ゆば》に、椎茸《しいたけ》に、芋《いも》に、豆腐、いろいろあるじゃないか」
「いろいろある事はあるがね。ある事は君の商売道具まであるんだが――困ったな。昨日《きのう》は饂飩《うどん》ばかり食わせられる。きょうは湯葉に椎茸ばかりか。ああああ」
「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味《びみ》だ」
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴《さかな》は何もないのかい」
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも辟易《へきえき》だな」
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って御出《おいで》。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然《たいぜん》たる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくっても好《い》い。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情《なさけ》ない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶《あいさつ》をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿《えびす》ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱり罎《びん》に這入《はい》ってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛《ひごなま》りの返事をする。
「じゃ、ともかくもその栓《せん》を抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
 下女は心得貌《こころえがお》に起って行く。幅の狭い唐縮緬《とうちりめん》をちょきり結びに御臀《おしり》の上へ乗せて、絣《かすり》の筒袖《つつそで》をつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪《そくはつ》に、だいぶ碌さんと圭さんの胆《たん》を寒からしめたようだ。
「あの下女は異彩を放ってるね」と碌さんが云うと、圭さんは平気な顔をして、
「そうさ」と何の苦もなく答えたが、
「単純でいい女だ」とあとへ、持って来て、木に竹を接《つ》いだようにつけた。
「剛健な趣味がありゃしないか」
「うん。実際|田舎者《いなかもの》の精神に、文明の教育を施《ほどこ》すと、立派な人物が出来るんだがな。惜しい事だ」
「そんなに惜しけりゃ、あれを東京へ連れて行って、仕込んで見るがいい」
「うん、それも好《よ》かろう。しかしそれより前に文明の皮を剥《む》かなくっちゃ、いけない」
「皮が厚いからなかなか骨が折れるだろう」と碌さんは水瓜《すいか》のような事を云う。
「折れても何でも剥くのさ。奇麗な顔をして、下卑《げび》た事ばかりやってる。それも金がない奴だと、自分だけで済むのだが、身分がいいと困る。下卑た根性《こんじょう》を社会全体に蔓延《まんえん》させるからね。大変な害毒だ。しかも身分がよかったり、金があったりするものに、よくこう云う性根《しょうね》の悪い奴があるものだ」
「しかも、そんなのに限って皮がいよいよ厚いんだろう」
「体裁だけはすこぶる美事《みごと》なものさ。しかし内心はあの下女よりよっぽどすれているんだから、いやになってしまう」
「そうかね。じゃ、僕もこれから、ちと剛健党《ごうけんとう》の御仲間入りをやろうかな」
「無論の事さ。だからまず第一着《だいいっちゃく》にあした六時に起きて……」
「御昼に饂飩《うどん》を食ってか」
「阿蘇《あそ》の噴火口を観《み》て……」
「癇癪《かんしゃく》を起して飛び込まないように要心《ようじん》をしてか」
「もっとも崇高なる天地間の活力現象に対して、雄大の気象《きしょう》を養って、齷齪《あくそく》たる塵事《じんじ》を超越するんだ」
「あんまり超越し過ぎるとあとで世の中が、いやになって、かえって困るぜ。だからそこのところは好加減《いいかげん》に超越して置く事にしようじゃないか。僕の足じゃとうていそうえらく超越出来そうもないよ」
「弱い男だ」
 筒袖《つつそで》の下女が、盆の上へ、麦酒《ビール》を一本、洋盃《コップ》を二つ、玉子を四個、並べつくして持ってくる。
「そら恵比寿が来た。この恵比寿がビールでないんだから面白い。さあ一杯《いっぱい》飲むかい」と碌さんが相手に洋盃を渡す。
「うん、ついでにその玉子を二つ貰おうか」と圭さんが云う。
「だって玉子は僕が誂《あつ》らえたんだぜ」
「しかし四つとも食う気かい」
「あしたの饂飩《うどん》が気になるから、このうち二個は携帯して行《い》こうと思うんだ」
「うん、そんなら、よそう」と圭さんはすぐ断念する。
「よすとなると気の毒だから、まあ上げよう。本来なら剛健党が玉子なんぞを食うのは、ちと贅沢《ぜいたく》の沙汰だが、可哀想《かわいそう》でもあるから、――さあ食うがいい。――姉さん、この恵比寿はどこでできるんだね」
「おおかた熊本でござりまっしょ」
「ふん、熊本製の恵比寿か、なかなか旨《うま》いや。君どうだ、熊本製の恵比寿は」
「うん。やっぱり東京製と同じようだ。――おい、姉さん、恵比寿はいいが、この玉子は生《なま》だぜ」と玉子を割った圭さんはちょっと眉をひそめた。
「ねえ」
「生だと云うのに」
「ねえ」
「何だか要領を得ないな。君、半熟を命じたんじゃないか。君のも生か」と圭さんは下女を捨てて、碌さんに向ってくる。
「半熟を命じて不熟を得たりか。僕のを一つ割って見よう。――おやこれは駄目だ……」
「うで玉子か」と圭さんは首を延《のば》して相手の膳《ぜん》の上を見る。
「全熟だ。こっちのはどうだ。――うん、これも全熟だ。――姉さん、これは、うで玉子じゃないか」と今度は碌さんが下女にむかう。
「ねえ」
「そうなのか」
「ねえ」
「なんだか言葉の通じない国へ来たようだな。――向うの御客さんのが生玉子で、おれのは、うで玉子なのかい」
「ねえ」
「なぜ、そんな事をしたのだい」
「半分煮て参じました」
「なあるほど。こりゃ、よく出来てらあ。ハハハハ、君、半熟のいわれが分ったか」と碌さん横手《よこで》を打つ。
「ハハハハ単純なものだ」
「まるで落《おと》し噺《ばな》し見たようだ」
「間違いましたか。そちらのも煮て参じますか」
「なにこれでいいよ。――姉さん、ここから、阿蘇まで何里あるかい」と圭さんが玉子に関係のない方面へ出て来た。
「ここが阿蘇でござりまっす」
「ここが阿蘇なら、あした六時に起きるがものはない。もう二三日《にさんち》逗留《とうりゅう》して、すぐ熊本へ引き返そうじゃないか」と碌さんがすぐ云う。
「どうぞ、いつまでも御逗留なさいまっせ」
「せっかく、姉さんも、ああ云って勧めるものだから、どうだろう、いっそ、そうしたら」と碌さんが圭さんの方を向く。圭さんは相手にしない。
「ここも阿蘇だって、阿蘇郡なんだろう」とやはり下女を追窮している。
「ねえ」
「じゃ阿蘇の御宮まではどのくらいあるかい」
「御宮までは三里でござりまっす」
「山の上までは」
「御宮から二里でござりますたい」
「山の上はえらいだろうね」と碌さんが突然飛び出してくる。
「ねえ」
「御前《おまえ》登った事があるかい」
「いいえ」
「じゃ知らないんだね」
「いいえ、知りまっせん」
「知らなけりゃ、しようがない。せっかく話を聞こうと思ったのに」
「御山へ御登りなさいますか」
「うん、早く登りたくって、仕方がないんだ」と圭さんが云うと、
「僕は登りたくなくって、仕方がないんだ」と碌さんが打《ぶ》ち壊《こ》わした。
「ホホホそれじゃ、あなただけ、ここへ御逗留なさいまっせ」
「うん、ここで寝転《ねころ》んで、あのごうごう云う音を聞いている方が楽《らく》なようだ。ごうごうと云やあ、さっきより、だいぶ烈《はげ》しくなったようだぜ、君」
「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」
「御山が少し荒れておりますたい」
「荒れると烈しく鳴るのかね」
「ねえ。そうしてよな[#「よな」に傍点]がたくさんに降って参りますたい」
「よな[#「よな」に傍点]た何だい」
「灰でござりまっす」
 下女は障子をあけて、椽側《えんがわ》へ人指《ひとさ》しゆびを擦《す》りつけながら、
「御覧なさりまっせ」と黒い指先を出す。
「なるほど、始終《しじゅう》降ってるんだ。きのうは、こんなじゃなかったね」と圭さんが感心する。
「ねえ。少し御山が荒れておりますたい」
「おい君、いくら荒れても登る気かね。荒れ模様なら少々延ばそうじゃないか」
「荒れればなお愉快だ。滅多《めった》に荒れたところなんぞが見られるものじゃない。荒れる時と、荒れない時は火の出具合が大変違うんだそうだ。ねえ、姉さん」
「ねえ、今夜は大変赤く見えます。ちょと出て御覧なさいまっせ」
 どれと、圭さんはすぐ椽側へ飛び出す。
「いやあ、こいつは熾《さかん》だ。おい君早く出て見たまえ。大変だよ」
「大変だ? 大変じゃ出て見るかな。どれ。――いやあ、こいつは――なるほどえらいものだね――あれじゃとうてい駄目だ」
「何が」
「何がって、――登る途中で焼き殺されちまうだろう」
「馬鹿を云っていらあ。夜だから、ああ見えるんだ。実際昼間から、あのくらいやってるんだよ。ねえ、姉さん」
「ねえ」
「ねえかも知れないが危険だぜ。ここにこうしていても何だか顔が熱いようだ」と碌さんは、自分の頬《ほっ》ぺたを撫《な》で廻す。
「大袈裟《おおげさ》な事ばかり云う男だ」
「だって君の顔だって、赤く見えるぜ。そらそこの垣の外に広い稲田があるだろう。あの青い葉が一面に、こう照らされているじゃないか」
「嘘《うそ》ばかり、あれは星のひかりで見えるのだ」
「星のひかりと火のひかりとは趣《おもむき》が違うさ」
「どうも、君もよほど無学だね。君、あの火は五六里先きにあるのだぜ」
「何里先きだって、向うの方の空が一面に真赤になってるじゃないか」と碌さんは向《むこう》をゆびさして大きな輪を指の先で描《えが》いて見せる。
「よるだもの」
「夜だって……」
「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔を覗《のぞ》き込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非《ぜひ》登る訳《わけ》かな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
 言い棄《す》てて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然《もくねん》と、眉《まゆ》を軒《あ》げて、奈落《ならく》から半空に向って、真直《まっすぐ》に立つ火の柱を見詰めていた。

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