2008年11月6日木曜日

 ぶらりと両手を垂《さ》げたまま、圭《けい》さんがどこからか帰って来る。
「どこへ行ったね」
「ちょっと、町を歩行《ある》いて来た」
「何か観《み》るものがあるかい」
「寺が一軒あった」
「それから」
「銀杏《いちょう》の樹《き》が一本、門前《もんぜん》にあった」
「それから」
「銀杏《いちょう》の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。非常に細長い寺だった」
「這入《はい》って見たかい」
「やめて来た」
「そのほかに何もないかね」
「別段何もない。いったい、寺と云うものは大概の村にはあるね、君」
「そうさ、人間の死ぬ所には必ずあるはずじゃないか」
「なるほどそうだね」と圭さん、首を捻《ひね》る。圭さんは時々妙な事に感心する。しばらくして、捻《ひ》ねった首を真直《まっすぐ》にして、圭さんがこう云った。
「それから鍛冶屋《かじや》の前で、馬の沓《くつ》を替《か》えるところを見て来たが実に巧《たく》みなものだね」
「どうも寺だけにしては、ちと、時間が長過ぎると思った。馬の沓がそんなに珍しいかい」
「珍らしくなくっても、見たのさ。君、あれに使う道具が幾通りあると思う」
「幾通りあるかな」
「あてて見たまえ」
「あてなくっても好《い》いから教えるさ」
「何でも七つばかりある」
「そんなにあるかい。何と何だい」
「何と何だって、たしかにあるんだよ。第一爪をはがす鑿《のみ》と、鑿を敲《たた》く槌《つち》と、それから爪を削《けず》る小刀と、爪を刳《えぐ》る妙《みょう》なものと、それから……」
「それから何があるかい」
「それから変なものが、まだいろいろあるんだよ。第一馬のおとなしいには驚ろいた。あんなに、削られても、刳られても平気でいるぜ」
「爪だもの。人間だって、平気で爪を剪《き》るじゃないか」
「人間はそうだが馬だぜ、君」
「馬だって、人間だって爪に変りはないやね。君はよっぽど呑気《のんき》だよ」
「呑気だから見ていたのさ。しかし薄暗い所で赤い鉄を打つと奇麗《きれい》だね。ぴちぴち火花が出る」
「出るさ、東京の真中でも出る」
「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は第一、音から違う。そら、ここまで聞えるぜ」
 初秋《はつあき》の日脚《ひあし》は、うそ寒く、遠い国の方へ傾《かたむ》いて、淋《さび》しい山里の空気が、心細い夕暮れを促《うな》がすなかに、かあんかあんと鉄を打つ音がする。
「聞えるだろう」と圭さんが云う。
「うん」と碌《ろく》さんは答えたぎり黙然《もくねん》としている。隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている。
「そこで、その、相手が竹刀《しない》を落したんだあね。すると、その、ちょいと、小手《こて》を取ったんだあね」
「ふうん。とうとう小手を取られたのかい」
「とうとう小手を取られたんだあね。ちょいと小手を取ったんだが、そこがそら、竹刀《しない》を落したものだから、どうにも、こうにもしようがないやあね」
「ふうん。竹刀を落したのかい」
「竹刀は、そら、さっき、落してしまったあね」
「竹刀を落してしまって、小手を取られたら困るだろう」
「困らああね。竹刀も小手も取られたんだから」
 二人の話しはどこまで行っても竹刀と小手で持ち切っている。黙然《もくねん》として、対坐《たいざ》していた圭さんと碌さんは顔を見合わして、にやりと笑った。
 かあんかあんと鉄を打つ音が静かな村へ響き渡る。癇走《かんばし》った上に何だか心細い。
「まだ馬の沓《くつ》を打ってる。何だか寒いね、君」と圭さんは白い浴衣《ゆかた》の下で堅くなる。碌さんも同じく白地《しろじ》の単衣《ひとえ》の襟《えり》をかき合せて、だらしのない膝頭《ひざがしら》を行儀《ぎょうぎ》よく揃《そろ》える。やがて圭さんが云う。
「僕の小供の時住んでた町の真中に、一軒|豆腐屋《とうふや》があってね」
「豆腐屋があって?」
「豆腐屋があって、その豆腐屋の角《かど》から一丁ばかり爪先上《つまさきあ》がりに上がると寒磬寺《かんけいじ》と云う御寺があってね」
「寒磬寺と云う御寺がある?」
「ある。今でもあるだろう。門前から見るとただ大竹藪《おおたけやぶ》ばかり見えて、本堂も庫裏《くり》もないようだ。その御寺で毎朝四時頃になると、誰だか鉦《かね》を敲《たた》く」
「誰だか鉦を敲くって、坊主が敲くんだろう」
「坊主だか何だか分らない。ただ竹の中でかんかんと幽《かす》かに敲くのさ。冬の朝なんぞ、霜《しも》が強く降って、布団《ふとん》のなかで世の中の寒さを一二寸の厚さに遮《さえ》ぎって聞いていると、竹藪のなかから、かんかん響いてくる。誰が敲くのだか分らない。僕は寺の前を通るたびに、長い石甃《いしだたみ》と、倒れかかった山門《さんもん》と、山門を埋《うず》め尽くすほどな大竹藪を見るのだが、一度も山門のなかを覗《のぞ》いた事がない。ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏《うち》で海老《えび》のようになるのさ」
「海老のようになるって?」
「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」
「妙だね」
「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を明ける。ぎっぎっと豆を臼《うす》で挽《ひ》く音がする。ざあざあと豆腐の水を易《か》える音がする」
「君の家《うち》は全体どこにある訳《わけ》だね」
「僕のうちは、つまり、そんな音が聞える所にあるのさ」
「だから、どこにある訳だね」
「すぐ傍《そば》さ」
「豆腐屋の向《むこう》か、隣りかい」
「なに二階さ」
「どこの」
「豆腐屋の二階さ」
「へええ。そいつは……」と碌さん驚ろいた。
「僕は豆腐屋の子だよ」
「へええ。豆腐屋かい」と碌さんは再び驚ろいた。
「それから垣根の朝顔が、茶色に枯れて、引っ張るとがらがら鳴る時分、白い靄《もや》が一面に降りて、町の外《はず》れの瓦斯灯《ガスとう》に灯《ひ》がちらちらすると思うとまた鉦《かね》が鳴る。かんかん竹の奥で冴《さ》えて鳴る。それから門前の豆腐屋がこの鉦を合図に、腰障子《こししょうじ》をはめる」
「門前の豆腐屋と云うが、それが君のうちじゃないか」
「僕のうち、すなわち門前の豆腐屋が腰障子をはめる。かんかんと云う声を聞きながら僕は二階へ上がって布団《ふとん》を敷いて寝《ね》る。――僕のうちの吉原揚《よしはらあげ》は旨《うま》かった。近所で評判だった」
 隣り座敷の小手《こて》と竹刀《しない》は双方ともおとなしくなって、向うの椽側《えんがわ》では、六十余りの肥《ふと》った爺《じい》さんが、丸い背《せ》を柱にもたして、胡坐《あぐら》のまま、毛抜きで顋《あご》の髯《ひげ》を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑《おさ》えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾《は》ね返り、顋《あご》は上へ反《そ》り返る。まるで器械のように見える。
「あれは何日《いくか》掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ一日《いちんち》かな」
「一日や二日《ふつか》で奇麗《きれい》に抜けるなら訳《わけ》はない」
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫《な》で廻しながら抜いてるのを」
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生《は》えるかも知れないね」
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭《わとう》を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより幾日《いくか》掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好《い》いがつまらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申《もう》し出《だ》しを惜気《おしげ》もなし撤回した。
 一度|途切《とぎ》れた村鍛冶《むらかじ》の音は、今日山里に立つ秋を、幾重《いくえ》の稲妻《いなずま》に砕《くだ》くつもりか、かあんかあんと澄み切った空の底に響き渡る。
「あの音を聞くと、どうしても豆腐屋の音が思い出される」と圭さんが腕組をしながら云う。
「全体豆腐屋の子がどうして、そんなになったもんだね」
「豆腐屋の子がどんなになったのさ」
「だって豆腐屋らしくないじゃないか」
「豆腐屋だって、肴屋《さかなや》だって――なろうと思えば、何にでもなれるさ」
「そうさな、つまり頭だからね」
「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何人いるか分らない。それでも生涯《しょうがい》豆腐屋さ。気の毒なものだ」
「それじゃ何だい」と碌さんが小供らしく質問する。
「何だって君、やっぱりなろうと思うのさ」
「なろうと思ったって、世の中がしてくれないのがだいぶあるだろう」
「だから気の毒だと云うのさ。不公平な世の中に生れれば仕方がないから、世の中がしてくれなくても何でも、自分でなろうと思うのさ」
「思って、なれなければ?」
「なれなくっても何でも思うんだ。思ってるうちに、世の中が、してくれるようになるんだ」と圭さんは横着《おうちゃく》を云う。
「そう注文通りに行《い》けば結構だ。ハハハハ」
「だって僕は今日までそうして来たんだもの」
「だから君は豆腐屋らしくないと云うのだよ」
「これから先、また豆腐屋らしくなってしまうかも知れないかな。厄介《やっかい》だな。ハハハハ」
「なったら、どうするつもりだい」
「なれば世の中がわるいのさ。不公平な世の中を公平にしてやろうと云うのに、世の中が云う事をきかなければ、向《むこう》の方が悪いのだろう」
「しかし世の中も何だね、君、豆腐屋がえらくなるようなら、自然えらい者が豆腐屋になる訳だね」
「えらい者た、どんな者だい」
「えらい者って云うのは、何さ。例《たと》えば華族《かぞく》とか金持とか云うものさ」と碌さんはすぐ様えらい者を説明してしまう。
「うん華族や金持か、ありゃ今でも豆腐屋じゃないか、君」
「その豆腐屋|連《れん》が馬車へ乗ったり、別荘を建てたりして、自分だけの世の中のような顔をしているから駄目だよ」
「だから、そんなのは、本当の豆腐屋にしてしまうのさ」
「こっちがする気でも向がならないやね」
「ならないのをさせるから、世の中が公平になるんだよ」
「公平に出来れば結構だ。大いにやりたまえ」
「やりたまえじゃいけない。君もやらなくっちゃあ。――ただ、馬車へ乗ったり、別荘を建てたりするだけならいいが、むやみに人を圧逼《あっぱく》するぜ、ああ云う豆腐屋は。自分が豆腐屋の癖に」と圭さんはそろそろ慷慨《こうがい》し始める。
「君はそんな目に逢《あ》った事があるのかい」
 圭さんは腕組をしたままふふんと云った。村鍛冶の音は不相変《あいかわらず》かあんかあんと鳴る。
「まだ、かんかん遣《や》ってる。――おい僕の腕は太いだろう」と圭さんは突然腕まくりをして、黒い奴《やつ》を碌さんの前に圧《お》しつけた。
「君の腕は昔から太いよ。そうして、いやに黒いね。豆を磨《ひ》いた事があるのかい」
「豆も磨いた、水も汲《く》んだ。――おい、君|粗忽《そこつ》で人の足を踏んだらどっちが謝《あや》まるものだろう」
「踏んだ方が謝まるのが通則のようだな」
「突然、人の頭を張りつけたら?」
「そりゃ気違《きちがい》だろう」
「気狂《きちがい》なら謝まらないでもいいものかな」
「そうさな。謝まらさす事が出来れば、謝まらさす方がいいだろう」
「それを気違の方で謝まれって云うのは驚ろくじゃないか」
「そんな気違があるのかい」
「今の豆腐屋|連《れん》はみんな、そう云う気違ばかりだよ。人を圧迫した上に、人に頭を下げさせようとするんだぜ。本来なら向《むこう》が恐れ入るのが人間だろうじゃないか、君」
「無論それが人間さ。しかし気違の豆腐屋なら、うっちゃって置くよりほかに仕方があるまい」
 圭さんは再びふふんと云った。しばらくして、
「そんな気違を増長させるくらいなら、世の中に生れて来ない方がいい」と独《ひと》り言《ごと》のようにつけた。
 村鍛冶の音は、会話が切れるたびに静かな里の端《はじ》から端までかあんかあんと響く。
「しきりにかんかんやるな。どうも、あの音は寒磬寺《かんけいじ》の鉦《かね》に似ている」
「妙に気に掛るんだね。その寒磬寺の鉦の音と、気違の豆腐屋とでも何か関係があるのかい。――全体君が豆腐屋の伜《せがれ》から、今日《こんにち》までに変化した因縁《いんねん》はどう云う筋道なんだい。少し話して聞かせないか」
「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯《ゆうめし》前に温泉《ゆ》に這入《はい》ろう。君いやか」
「うん這入ろう」
 圭さんと碌さんは手拭《てぬぐい》をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒《しゅろお》の貸下駄《かしげた》には都らしく宿の焼印《やきいん》が押してある。

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