2008年11月6日木曜日

「おい、もう飯だ、起きないか」
「うん。起きないよ」
「腹の痛いのは癒《なお》ったかい」
「まあ大抵《たいてい》癒ったようなものだが、この様子じゃ、いつ痛くなるかも知れないね。ともかくも[#「ともかくも」に傍点]饂飩《うどん》が祟《たた》ったんだから、容易には癒りそうもない」
「そのくらい口が利《き》ければたしかなものだ。どうだいこれから出掛けようじゃないか」
「どこへ」
「阿蘇《あそ》へさ」
「阿蘇へまだ行く気かい」
「無論さ、阿蘇へ行くつもりで、出掛けたんだもの。行かない訳《わけ》には行かない」
「そんなものかな。しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」
「豆は痛むかね」
「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」
「あんなに、吸殻《すいがら》をつけてやったが、毫《ごう》も利目《ききめ》がないかな」
「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」
「だって、付けてやる時は大いにありがたそうだったぜ」
「癒ると思ったからさ」
「時に君はきのう怒ったね」
「いつ」
「裸《はだか》で蝙蝠傘《こうもり》を引っ張るときさ」
「だって、あんまり人を軽蔑《けいべつ》するからさ」
「ハハハしかし御蔭《おかげ》で谷から出られたよ。君が怒らなければ僕は今頃谷底で往生してしまったかも知れないところだ」
「豆を潰《つぶ》すのも構わずに引っ張った上に、裸で薄《すすき》の中へ倒れてさ。それで君はありがたいとも何とも云わなかったぜ。君は人情のない男だ」
「その代りこの宿まで担《かつ》いで来てやったじゃないか」
「担いでくるものか。僕は独立して歩行《ある》いて来たんだ」
「それじゃここはどこだか知ってるかい」
「大《おおい》に人を愚弄《ぐろう》したものだ。ここはどこだって、阿蘇町さ。しかもともかくもの饂飩《うどん》を強《し》いられた三軒置いて隣の馬車宿だあね。半日山のなかを馳《か》けあるいて、ようやく下りて見たら元の所だなんて、全体何てえ間抜《まぬけ》だろう。これからもう君の天祐《てんゆう》は信用しないよ」
「二百十日だったから悪るかった」
「そうして山の中で芝居染《しばいじ》みた事を云ってさ」
「ハハハハしかしあの時は大いに感服して、うん、うん、て云ったようだぜ」
「あの時は感心もしたが、こうなって見ると馬鹿気《ばかげ》ていらあ。君ありゃ真面目《まじめ》かい」
「ふふん」
「冗談か」
「どっちだと思う」
「どっちでも好いが、真面目なら忠告したいね」
「あの時僕の経歴談を聴《き》かせろって、泣いたのは誰だい」
「泣きゃしないやね。足が痛くって心細くなったんだね」
「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、昨日《きのう》た別人の観《かん》がある」
「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」
「僕に対してかい」
「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」
「いい迷惑だ。時に君は粥《かゆ》を食うなら誂《あつ》らえてやろうか」
「粥もだがだね。第一、馬車は何時に出るか聞いて貰いたい」
「馬車でどこへ行く気だい」
「どこって熊本さ」
「帰るのかい」
「帰らなくってどうする。こんな所に馬車馬と同居していちゃ命が持たない。ゆうべ、あの枕元でぽんぽん羽目を蹴《け》られたには実に弱ったぜ」
「そうか、僕はちっとも知らなかった。そんなに音がしたかね」
「あの音が耳に入《はい》らなければ全く剛健党に相違ない。どうも君は憎くらしいほど善《よ》く寝る男だね。僕にあれほど堅い約束をして、経歴談をきかせるの、医者の日記を話すのって、いざとなると、まるで正体なしに寝ちまうんだ。――そうして、非常ないびき[#「いびき」に傍点]をかいて――」
「そうか、そりゃ失敬した。あんまり疲れ過ぎたんだよ」
「時に天気はどうだい」
「上天気だ」
「くだらない天気だ、昨日晴れればいい事を。――そうして顔は洗ったのかい」
「顔はとうに洗った。ともかくも起きないか」
「起きるって、ただは起きられないよ。裸で寝ているんだから」
「僕は裸で起きた」
「乱暴だね。いかに豆腐屋育ちだって、あんまりだ」
「裏へ出て、冷水浴をしていたら、かみさんが着物を持って来てくれた。乾《かわ》いてるよ。ただ鼠色《ねずみいろ》になってるばかりだ」
「乾いてるなら、取り寄せてやろう」と碌さんは、勢《いきおい》よく、手をぽんぽん敲《たた》く。台所の方で返事がある。男の声だ。
「ありゃ御者《ぎょしゃ》かね」
「亭主かも知れないさ」
「そうかな、寝ながら占《うらな》ってやろう」
「占ってどうするんだい」
「占って君と賭《かけ》をする」
「僕はそんな事はしないよ」
「まあ、御者か、亭主か」
「どっちかなあ」
「さあ、早くきめた。そら、来るからさ」
「じゃ、亭主にでもして置こう」
「じゃ君が亭主に、僕が御者だぜ。負けた方が今日|一日《いちんち》命令に服するんだぜ」
「そんな事はきめやしない」
「御早う……御呼びになりましたか」
「うん呼んだ。ちょっと僕の着物を持って来てくれ。乾いてるだろうね」
「ねえ」
「それから腹がわるいんだから、粥《かゆ》を焚《た》いて貰いたい」
「ねえ。御二人さんとも……」
「おれはただの飯《めし》で沢山だよ」
「では御一人さんだけ」
「そうだ。それから馬車は何時と何時に出るかね」
「熊本通いは八時と一時に出ますたい」
「それじゃ、その八時で立つ事にするからね」
「ねえ」
「君、いよいよ熊本へ帰るのかい。せっかくここまで来て阿蘇《あそ》へ上《のぼ》らないのはつまらないじゃないか」
「そりゃ、いけないよ」
「だってせっかく来たのに」
「せっかくは君の命令に因《よ》って、せっかく来たに相違ないんだがね。この豆じゃ、どうにも、こうにも、――天祐《てんゆう》を空《むな》しくするよりほかに道はあるまいよ」
「足が痛めば仕方がないが、――惜しいなあ、せっかく思い立って、――いい天気だぜ、見たまえ」
「だから、君もいっしょに帰りたまえな。せっかくいっしょに来たものだから、いっしょに帰らないのはおかしいよ」
「しかし阿蘇へ登りに来たんだから、登らないで帰っちゃあ済まない」
「誰に済まないんだ」
「僕の主義に済まない」
「また主義か。窮屈な主義だね。じゃ一度熊本へ帰ってまた出直してくるさ」
「出直して来ちゃ気が済まない」
「いろいろなものに済まないんだね。君は元来強情過ぎるよ」
「そうでもないさ」
「だって、今までただの一遍でも僕の云う事を聞いた事がないぜ」
「幾度もあるよ」
「なに一度もない」
「昨日《きのう》も聞いてるじゃないか。谷から上がってから、僕が登ろうと主張したのを、君が何でも下りようと云うから、ここまで引き返したじゃないか」
「昨日は格別さ。二百十日だもの。その代り僕は饂飩《うどん》を何遍も喰ってるじゃないか」
「ハハハハ、ともかくも……」
「まあいいよ。談判はあとにして、ここに宿の人が待ってるから……」
「そうか」
「おい、君」
「ええ」
「君じゃない。君さ、おい宿の先生」
「ねえ」
「君は御者《ぎょしゃ》かい」
「いいえ」
「じゃ御亭主かい」
「いいえ」
「じゃ何だい」
「雇人《やといにん》で……」
「おやおや。それじゃ何にもならない。君、この男は御者でも亭主でもないんだとさ」
「うん、それがどうしたんだ」
「どうしたんだって――まあ好いや、それじゃ。いいよ、君、彼方《あっち》へ行っても好いよ」
「ねえ。では御二人さんとも馬車で御越しになりますか」
「そこが今|悶着中《もんちゃくちゅう》さ」
「へへへへ。八時の馬車はもう直ぐ、支度《したく》が出来ます」
「うん、だから、八時前に悶着をかたづけて置こう。ひとまず引き取ってくれ」
「へへへへ御緩《ごゆ》っくり」
「おい、行ってしまった」
「行くのは当り前さ。君が行け行けと催促《さいそく》するからさ」
「ハハハありゃ御者《ぎょしゃ》でも亭主でもないんだとさ。弱ったな」
「何が弱ったんだい」
「何がって。僕はこう思ってたのさ。あの男が御者ですと云うだろう。すると僕が賭《かけ》に勝つ訳《わけ》になるから、君は何でも僕の命令に服さなければならなくなる」
「なるものか、そんな約束はしやしない」
「なに、したと見傚《みな》すんだね」
「勝手にかい」
「曖昧《あいまい》にさ。そこで君は僕といっしょに熊本へ帰らなくっちゃあ、ならないと云う訳さ」
「そんな訳になるかね」
「なると思って喜こんでたが、雇人《やといにん》だって云うからしようがない」
「そりゃ当人が雇人だと主張するんだから仕方がないだろう」
「もし御者ですと云ったら、僕は彼奴《あいつ》に三十銭やるつもりだったのに馬鹿な奴《やつ》だ」
「何にも世話にならないのに、三十銭やる必要はない」
「だって君は一昨夜《いっさくや》、あの束髪《そくはつ》の下女に二十銭やったじゃないか」
「よく知ってるね。――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「例《たと》えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない」
「成功しないのは当り前だ」
「すると、同じようなわるい事を明日《あした》やる。それでも成功しない。すると、明後日《あさって》になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断《ごんごどうだん》だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」
「そこでともかくも阿蘇《あそ》へ登ろう」
「うん、ともかくも阿蘇へ登るがよかろう」
 二人の頭の上では二百十一日の阿蘇が轟々《ごうごう》と百年の不平を限りなき碧空《へきくう》に吐き出している。

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